序論
どうも会長です。
シナリオだとか小説以外の文をどう記そうか迷いながら書いていますから、途中から文の形式が変わるかもしれないのでご了承。
ノリと勢いで書かせていただきます。たぶん終止テンションがおかしくなりそう。
さて、今回私が書かせていただく記事の内容ですが、たぶんタイトルにありますように「散歩」についてでございます。
会長についての経験だとか、シナリオライターとしての心得などではないかという悲嘆と疑問の意見が画面の先から聞こえますが、プログラマーのプの字も知らない私がここ半年の挫折で味わったことなんぞ書いても別にいいでしょう。強いて言うなら、
「心を殺して業務に勤しめ。期限は守れ。ちゃんと発言しろ。あとちゃんと相談しろ」
ぐらいです。会長といっても偉くないのです。
シナリオライターに関して?
文を書いているときに気を付けること?
「同じ表現は避けること。語尾の繰り返しはだめ」
です。
もっと言うなら、アイデアを得る手段としてAI君が非常に有能であることですね。
何か詰まったりしたらよく相談します。展開自体はあんまり尋ねないんですけど、事象や人の名前のアイデアだとか、神話を軽く知りたいときとか、言葉がでてこなかったりしたときに使ってます。あと誤字脱字のチェックにも使えますね。
まあずっとなんとなくのプロット組んだあとはその場その場で修正と追加を繰り返しながら突っ走っている自分なんで参考にはならないです。
え? そんなんだから小さな伏線とか設定を忘れるんだって? うるさいなあ……そんなことわかってるんですよ。だからよく読み返すんです。
歩こう。歩こう。私はげんき。
ということで本題に入りましょう。
みなさん散歩についてどんなイメージがありますか?
ただ歩くこと? 健康にいいこと? おじいちゃんおばあちゃんがよくすること?
坂道トンネルくさっぱら? 一本橋にでこぼこ砂利道?
まあ全部正解でしょう。もっと知りたい人は広辞苑開いてください。
ここで言いたいのは、なぜ私が散歩をするかということです。
結論から申し上げますと、「自分の妄想を膨らませるため」です。
散歩と妄想がつながるのかという意見を持った人もいるでしょう。
一旦理由を話す前にまず人間について語らねばなりません。
とあるサッカー漫画でですね、こんなことが書いてありました。
「人間には二つのタイプがある。自由型と不自由型が」
「自由型はやりたいことがたくさんある、できる状態だとパフォーマンスが発揮されるタイプ。不自由型はやりたいことが、やれることが限られる状態だとパフォーマンスが発揮される状態だ」
というものです。(まあ上は極論であって普通の人間はその二つが配合されているとは思うんですけどね。)
では自分はどっちなのかというと、たぶん不自由型です。
ナニカしないといけない。何かしかできないという状態になると自分はやる気になります。
逆に言うといろんなことができるとそれにかまってやるべきことができないということです。
自分の物語について考えたい、けれど家では漫画なりゲームなりがあってできない…………そんな時に、
テッテレッテッテーテッテー!(21世紀猫型ロボット風)
散歩ォー!
散歩をしている最中は周りには何もない。
まあスマホは持っていますが歩きスマホをするほど依存はしていないので。
なので頭で考えることぐらいしかできない。
つまり、私は散歩がしたいのではなく、
「歩くことしかできない状態を作ることで無理やり自分の物語についての思考をさせる」
というのが正しいです。
散歩はやる気スイッチのヒトツなわけです。やる気というのは不意に湧いてくるのではなく、やっていたらそのうち湧いてくるものです。ドーパミンというやつですね。
皆様も経験したことがあるでしょう?
つまらない授業の最中に、学校にテロリストが襲ってきたらとか妄想したことを。
子供の頃、タブレットやスマホがなかったときの車での移動中に窓の外の景色を見ながら、建物の上に忍者を走らせていたことを。
それと同じです。
思考を制限するのです。ないところから楽しみを見出すのです。
きっかけ
もともとこの思考はたぶん小五から始まったことです。
物語を創り始めようとしたのがそのころでして、きっかけは「大造じいさんとガン」に出てくる単語、「真一文字」がかっこよくて技名みたいだ。と感じて10個の剣の技を考えました。(今でも現在ネットに上げている作品で採用しています)
当時はスマホをもってなかったので登校や下校の最中はずっと歩くだけ。頭で創作ができる環境が整っていきました。
中学校も小学校の隣にあったのでルートは全く同じ。景色も9年間変わらなかったので頭の中に集中できるのは必然でしょう。
中学校になればいろんな作品を楽しむことが可能となった時期ですので、それらを吸収して、頭の中での物語が形作られてきました。
高校はちょっと遠く、自転車を40分くらい漕がなければいけない距離でした。イアホンをつけるのは怖かったので(警察に怒られるかもとビビったり、そもそも危なかったり)、長い時間創作活動ができましたね。
ちなみにジョギングではないのは、走っている最中は頭にエネルギーが行かないので妄想できないからです。不便な体ですよ本当に。
私が言いたいことの一つは、「頭を動かしたいのなら、誘惑から物理的に離れることが大事」ということです。
ルートに関しては、実家ルートと広大ルートの二つがあります。
実家は田舎道でありまして、非常に穏やかな気分で歩くことができます。
ただ考えていることは牧歌的なことではなく、バトルですので一度の散歩で一回は誰かが血を流します。
「全長何百メートルの超巨大なドラゴンが住処である火山からでっかくて禍々しい剣を引き抜く」なんてたぶん散歩中以外では思いつきません。
まあ新しいアイデアが振ってくるのは稀で、だいたいはそのとき執筆している状況の直後を詳しく考えたり、あってもその章内のバトルの展開ですね。
広大ルートは、文字通り広大を一周するルートです。
交番から南下して大学会館まで行き、そのまま西体育館を登って交番に戻ってくる。ざっくり言うとこんな感じです。
早いうちに妄想がはかどってきたら交番から南下して大学会館がある信号を曲がるのではなく、そのまままっすぐ行ったり、最近は道中にある遺跡に寄ったりしてます。
一度考えが乗ってくるともう止まりません。ずっと展開を考え続け、本当に調子がいいときは歩きながらセリフを呟いたり、道の真ん中でポーズを取ったりします。 だいたい上半身だけ、まれに全身使ってます。
実家ルートは田舎道なので人とすれ違いません。思う存分叫べるのはありがたい。
恥ずかしそうだとか思う人もいるかもしれませんが面白い作品を作るという事象の前には些細なことです。羞恥心なんぞもうなくなりました。(とはいってもいざ人の前でやってみろと言われると無理ですが)
そうやってあいまいだったイメージを固め、文字に書き起こすのです。
突っ走って書いている自分にとっては一度立ち止まって展開を考える「散歩」という段階は非常に重要なわけです。
まとめ
色々話しましたが、要点は二つ。創作者である自分にとって散歩は欠かせない慣習だということ。
そして、自分を知ること。性質、癖諸々を知って自分に合った生活を送ることが大事なのです。
以上、whenでした。
…………こんな感じでいいのだろうか?
